<< スイス時計の黎明 腕時計の誕生 >>
18世紀から、スイスではいち早く懐中時計生産の分業体制が確立され、イギリス、フランスやアメリカには既成ムーブメント(エボーシュ)などの時計部品を輸出していました。しかし、実際には下請け職人が個々に手作りしていたため、部品の品質や供給は安定していませんでした。
19世紀に入り、品質の向上を目的とした大量生産の試みが始まります。
産業革命の真っ只中のイギリスでは、世界各地から原料を輸入し、安価な工業製品を輸出していました。懐中時計の部品もスイスから輸入していましたが、工業技術の独占をはかるために1774年に機械輸出禁止令(1843年に廃止)が出されてからは時計の生産量も伸び悩みました。
1774年、フランスのフレデリック・ジャピーが初めての時計の量産工場を設立し、1810年には蒸気機関による掛時計部品の大量生産を始めます。この技術は隣国のスイスにもたらされます。1830年頃、スイスのピエール・アンゴルやジョルジュ・ルショが、懐中時計用の互換部品の機械生産を始めました。しかし、製造工程の下請け体制が複雑だったスイスでは、なかなか合理化が進みませんでした。
懐中時計の大量生産は、大西洋をはさんだアメリカで本格化します。
1850年、ボストンで時計屋を営んでいたアーロン・ラフキン・デニソンは、エドワード・ハワードらと懐中時計の製造会社(ハワード、デイビス&デニソン社)を設立しました。部品の規格を統一して均一な品質の懐中時計を大量生産することを目指しました。1854年に大規模な工場をウォルサムに建設し、ボストン・ウォッチ・カンパニーとして懐中時計の本格的な量産に乗り出します。現在のウォルサムの始まりです。
ウォルサム工場で生産される懐中時計は、月産1000個を数え、ヨーロッパの古い生産方式の1年分に匹敵しました。しかし、懐中時計市場の需要は追いついておらず、大量の在庫を抱えたまま1857年に倒産しました。
解雇されたデニソンは、いくつかの時計事業を経た後、1874年にロンドンで立ち上げた時計ケース製造会社が軌道に乗り、後にデニソンケースは懐中時計の高級ケースの代名詞となりました。一方のハワードは、1857年にE.ハワード社を設立し、懐中時計で数々の特許を取得しています。今では高級時計に採用されるスワンネック緩急針も、もともとはハワードが発売したものです。塔時計でも成功し、1881年には札幌の時計台にもハワード社製の機械が設置されました。
その後のウォルサム工場は、資本家に買収されアメリカン・ウォッチ・カンパニーとして操業を再開します。19世紀後半の鉄道の普及により、鉄道員や運行システムに必要な時計の需要が爆発的に増大し、ウォルサム工場の高い生産力が威力を発揮しました。高品質で大量生産による低価格は世界中に評価され、各国の標準鉄道時計に採用されました。
スイス全体の年間生産量が150万個だった1890年代、ウォルサム工場の生産量は100万個に達していました。
19世紀には多くのスイス時計ブランドが誕生します。
創業年 | 社名 | 創業者 | 創業地 |
1832年 | ロンジン | オーギュスト・アガシ | サンティミエ |
1833年 | 現ジャガー・ルクルト | アントワーヌ・ルクルト | ル・サンティエ |
1839年 | パテック・チャペック 現パテック・フィリップ |
アントワーヌ・ド・パテック フランソワ・チャペック |
ジュネーブ |
1846年 | ユリス・ナルダン | ユリス・ナルダン | ル・ロックル |
1848年 | オメガ | ルイ・ブラン | ラショード・フォン |
1856年 | ジラール・シルド 現エテルナ |
ウルス・シルド ヨセフ・ジラール |
グレンヘン |
1860年 | ショパール | ルイ・ユリス・ショパール | ソンビニエ |
1864年 | 現タグ・ホイヤー | エドワード・ホイヤー | サンティミエ |
1865年 | ゼニス | ジョルジュ・ファープル・ジャコ | ル・ロックル |
1868年 | IWC | フローレンス・アリオスト・ジョーンズ ヨハン・ハインリッヒ・モーザー |
シャフハウゼン |
1875年 | オーデマ・ピゲ | ジュール・オーデマ エドワール・ピゲ |
ル・ブラッシュ |
1884年 | ブライトリング | レオン・ブライトリング | ラショード・フォン |
1887年 | エベラール | ジョージ・エミール・エベラール | ラショード・フォン |
1898年 | オーガスト・レイモンド | オーガスト・レイモンド | トラメラン |
to be continued...
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