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精度への挑戦

時計の歴史(3)

大航海時代の天文学の発達

16世紀以降の大航海時代、ヨーロッパ諸国は、遭難や座礁、長びく航海による病気や費用に悩まされていました。早くから南北の緯度の計測は可能でしたが、東西の経度を計測する手段がなく、海上で正確な位置を把握することができなかったためです。

大西洋航路の経度測定

天体の運行を解明することで、正確な経度を導き出せると信じられていたため、天文学者は天体観測に没頭していました。1598年、スペインのフェリペ3世は経度測定に終身年金を出すと発表した時には、ガリレオ・ガリレイが木星の観測から経度を知る方法を書き送ったといわれています。17世紀には、イギリスやフランスで王立科学アカデミーや王立天文台が設立されました。

この結果、天文学は飛躍的に進歩しましたが、経度を測定する実用的な方法は見つかっていませんでした。

時計による経度測定

母港の時間を正確に刻み続ける時計があれば、航海中の船の上で経度を計算することができることは知られていました。

出発地の正午に時計を合わせ出航し、航海中のある日、太陽が一番高い時に時計を見れば時差がわかります。24時間で経度360度分なので、西へ航海し時差が2時間であれば経度30度分、つまり3,000km西に進んだことがわかります。1度が赤道上107km、1秒あたり445mですから、経度測定に時計を使うのであれば秒単位の精度が必要でした。

しかし、当時の時計は安定した地面の上でさえ1日に10分以上もずれるため、この方法は非現実的なものとされていたのです。

経度コンクール

1707年に2000名もの犠牲者を出したイギリス海軍の事故を機に、イギリスで経度測定を推進する経度委員会が設立しました。当時の優秀な天文学者、物理学者で構成され、かのアイザック・ニュートンもメンバーでした。

1714年、経度委員会は経度法を制定し、イギリスからカリブ海の西インド諸島までの6週間の航海において、0.5度の誤差で経度を測定する方法(どんな方法でも)を編み出した者に、20,000ポンドの賞金(現在価値で2億円)を与えることを発表しました。

これは、時計の誤差で2分にあたり、揺れ続ける船上で1日あたり数秒のずれも許されないという、現代でも厳しい基準でした。

クロノメーターの開発

1714年、イギリスのジェレミー・サッカーは真空の箱に水平に保持される時計を提案し、これを「マリンクロノメーター」と名づけました。この言葉は高精度な船舶用時計の名称として広く使われるようになりました。しかし、温度変化に弱く、航海に必要な精度にはほど遠かったため、実用化されませんでした。

ハリソンのクロノメーターH1

Harrison's Chronometer H 1

1735年、ヨークシャー出身のジョン・ハリソン(John Harrison)は、海上での振動や湿度、温度変化に影響を受けない独自のメカニズムのクロノメーターH1を開発しました。摩擦や振動に強いグラスホッパー脱進機(退却式脱進機)や温度補正のバイメタルを備えていました。ハリソンはその後も改良を重ね、1759年に開発したH4が実験航海で初めてコンクール基準をクリアしたのでした。6週間の大西洋の航海でわずか5秒しか狂わなかったそうです。

キャプテン・クックが南極探検に使用した時計もハリソン製作のクロノメーターです。現在、H1からH4はグリニッジ国立海事博物館に展示されています。

大英帝国を築いたクロノメーター

経度測定に時計が有効であることが証明され、時計職人達はクロノメーター製作に駆り出され、イギリスの時計産業は急成長しました。同時に、大洋を自由に航海できるようになったイギリスは強大な海軍力で世界中に植民地を築いていきました。1860年当時、200隻以上配備していた英国海軍は、800個のクロノメーターを保有していました。

19世紀、7つの海の支配者、世界の工場と呼ばれた大英帝国の絶頂期を迎えることができたのは、クロノメーターの発明が一役を担っていたといえます。

1884年、グリニッジ天文台が経度0度の地点となり、世界標準時(GMT)に定められました。

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